こんばんは!
突然ですが、私は人の数だけ世界の色が存在していると思っています。
例えばですね、
- 小学生にとっての小学校
- 柔道経験者にとっての柔道場
- 日常的に行くスーパー
など、自分に関わりのある施設や物には突然興味や関心があるわけで普通の色が付けられます。
逆に、
- 高齢者にとっての小学校
- 柔道未経験者にとっての柔道
- 自分の生活とは関わりのないスーパー
これらは自分には関わりのないもので先に挙げたものと比べると全然注目しないので色すら付けられないのです。
もちろん、関わりがなくても関心があったり、あまり行かないスーパーでも「スーパー玉出」のように派手な施設であれば嫌でも目に入ります。

しかし、それもまた多彩な色の一つになりえるのです。
なぜこのようなことを突然思えたかといいますと、会社の前を小学生が通り過ぎる姿を見て「この子にとってこの会社は目にもつかない物なんだよな」と思ったことが始まりです。
それで自分の小学生時代を思い出しました。
私は大阪出身ですが、中小の町工場が集まる地域の育ちです。確かにあのときを思えば「臭い工場が周りにあるな~」と思うだけでそれらをすべてひとまとめにしていました。
家の前にある工場の名前は知っていました。
しかしそれだけです。
その工場に勤務する人たちはその場所こそが自分の活動スペースであり、シャッターばかり並んでいた工場の中には色鮮やかな世界があったんだと今は思えます。
同じ場所で働く人でも、育ち・性格・実家の環境などによって感じ方はそれぞれですし、それを思うとただ一か所の場所でもカラフルになりえます。
人というフィルターを通して鮮やかな色が紡がれるんだと思います。
かのフランスの哲学者デカルトはこう言いました。
「我思う故に我在り」
これは自分が感じている意識の内容はすべて疑ってかかるものになりえるが、自分の意識自体やその存在自体は疑うことができないと唱えたものです。

この考え方で言うと自分が見ている世界の色はすべて偽物だと疑えるということですが、それもまた物の捉え方すなわち色になりえます。
こんなことを言ってしまえば哲学という哲学を敵に回してしまいそうですが、こういった戯言の前には哲学は無力ってことですね。
あ、この発言も色が出ちゃいましたね(笑)
それではこの辺で…